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小中学以降の、友人と思いたい相手を友人と思っていいか悩む或は不安になるのは自分にとって普通であり、不可避なものだと思っている。反射的な感情をさほど抑制せずに生きていた小学生から一部の中学生のころに好意的な反応が得られた相手に彼らは疑いなく親友だと思っている。しかし、それ以降は話が違う。中学になれば複数の顔を用意する人が増えだし、不器用にだますことも多くなり、高校ともなれば自然とやってのけていたのだろう。目も前でどういう反応をしてどういったからと言って、陰ではどうなのかわかったものではない。ノートを貸してと言われて、なぜおまえが俺にと驚きつつも貸したら翌日ゴミ箱に捨てられているという現実さえあるのだから。交遊関係がかなり狭く、かつ、多くの人に向けて発言をしたような記憶もないままに呼び出され、自分の発言についてそれが何かもわからないのに謝罪を書かされたこともある。高校のクラスなどほとんど記憶に残っていないが、謝罪を書かせた奴がもしかしたら知人或は友人面をした奴だったのかと思うと哀しくも憎らしくもなる。自分が可愛く、傷つくのが嫌。つい忘れて楽しさに身を任せてしまいそうになる時もあるが、思い出しては信じてしまわないようにとも思う。同級生の上位に知人がいて、その上位にその場での仲間がいる。またその上位にその場での友人がいて、さらにその上位に、親友がいると思う。同級生から知人には何かの機会があって、ほぼない積極性を発揮できた場合や強制力のもとで交流を余儀なくされた場合に昇格する気がする。その知人と協力関係を築く或はその必要性を感じる場合は仲間と思えるかもしれない。友人へと自分の中で重要性を増すのは、その相手といると楽いとか、その相手といたことでいい時間を過ごす方法の一つだと思える時かもしれない。相手も自分にあいたいと思ってくれると疑いなく信じられる場合には、特に親友と感じるかもしれない。